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マリオ・デル・モナコ先生、フランコ・コレッリさん、そして、アルフレード・クラウスさん
2004年3月1日
宇佐美 保
インターネットを散策していましたら、フランコ・コレッリさん(昨年惜しくもこの世を去られた偉大なテノール)を紹介されているページ「なつのイタリア文化周遊:Omaggio a Franco Corelli」を訪ねる事が出来ました。
(http://www5d.biglobe.ne.jp/~natsuweb/omaggio.htm)
拙文《マリオ・デル・モナコ先生と私》にも書かせて頂きましたように、「オペラ大嫌い人間」の私を「オペラ大好き人間」に変換させて下さったのは、NHKイタリア歌劇団のテレビ放送、オペラ『道化師』に於けるマリオ・デル・モナコ先生の“衣装を付けろ”の熱唱熱演でした。
でも、愚かな私には、マリオ・デル・モナコ先生の真の偉大さには気が付かず、只只、声の大きさに憧れていたのでした。
(なにしろ、マリオ・デル・モナコ先生の真の偉大さに気が付き始めたのはつい最近のことなのです。)
そして、地声の大きさだけは自信がありましたから、その後来日されたソプラノのビルギット・ニルソンの東京文化会館の壁全体を揺さぶるような声だって出せるぞ!と思い込んでいたのです。
その上、コレッリさん同様に昨年亡くなられたバス・バリトンの巨人ハンス・ホッターがとても人間とは思えないほどの大きな声で歌う『さまよえるオランダ人』のアリアをサンケイホール(今はもう無いのでしょうね?)の最前列(ホッターさんの真ん前)で聞いていても、“このアリアは何か難しい音で、今、直ぐは歌えないけど、いつの日かホッターさんより大きな声で歌ってやるぞ!”と真剣に思っていたのです。
と申しますのは、当時はなんだか高音が自由にならなくなって(そもそも最初からいい加減な高音でしたから)、コメッリ先生のお宅ではバス・バリトンのアリアを歌わせて頂いていたりしたのですから。
そして、家では、コレッリさんの何の苦もなく豊かな高音を鳴り響かせる「オペラ・アリア集」のレコードに負けじばかりに声を張り上げていたのでした。
そんな馬鹿な私ですから、一時はかってに「フランコ・デル・モナコ」と詐称していた位なのです。
ですから、コレッリさんに関するページを訪問出来て感激でした。
そのページには、次のように書かれていました。
さる2001年10月15日、ミラノ スカラ座にてフランコ・コレッリを称える夕べ"Omaggio a Franco Corelli"が開催されたそうです。 その際のカタログがスカラ座の公式ホームページ内のScalabookstoreにて購入できるので、12月14日申し込んだところ、12月25日東京の我が家に本が到着しました! 郵送料込みで39.77ユーロ(77,005リラ)。実は本体より郵送料の方が高いのが、気に入らなかったのですが、ほしいものはどうしようもない!というわけで。…… |
そこで、私も早速、そのカタログとコレッリさんの『運命の力』のDVDとマリオ・デル・モナコ先生の本とを発注しました。
そしたら、本当に本体よりも郵送料の方が高く、全部で4万円近く(?)になってしまいました。
(一括発送なら、輸送料が安くなると思ったのですが、ならないようです。)
そして、この素敵なホームページは、まさに“本物は本物を知る”の端的な例を示してくれていました。
(紫色の部分はコレッリさんの発言)
…… あなたはデル・モナコが録音したレオンカヴァッロの『ラ・ボエーム』の"La testa adorata"のレコードを擦り切れるほど聴いたそうですね。 これこそ賞賛にあたいするものだと声を大にして言いたいね。私はカルーソー、ペルティーレ、ラウリ−ヴォルピたちから何かを得ようと努めていた。デル・モナコはすべてを備えていた。声、美貌、完璧なプロフィール。舞台の上で彼は支配者として振舞っていた。『オテロ』は、至上空前の演技歌唱だった。 |
コレッリさん(そして、マエストロ シチリアーニさんも)マリオ・デル・モナコ先生の声を“これこそ賞賛にあたいするものだと声を大にして言いたいね”と評価されております。
このコレッリさんのお気持ちが本当であることの証拠を私は知っているのです。
1982年10月にマリオ・デル・モナコ先生が亡くなられて、ベネチア近郊にあるデル・モナコ先生のご両親のお墓に埋葬される際に、コレッリさんは駆け付け、参列されておられるのです。
ですから、私は“本物は本物を知る”の思いを大にしているのです。
ところが世の中では、本物の本物たる所以を理解出来ずに、本に書いたり、批評したりしてしまう方々が大勢居られるようです。
先の拙文《デル・モナコ先生への一般的評価に対して》にも書きましたが、本間公氏は会社勤務の傍ら書かれた著作『思いっきりオペラ』(音楽評論の権威者の吉用秀和絶賛)の中で、次のように記述されています。
デル・モナコが戦後の代表的なドラマティック・テノールの一人であることはたしかだが、……五線譜より上の高音を発する時、オペラ的な発声ではどちらかといえば顎は引く(さもないとこの音域は充分に響かない)ものだが、デル・モナコはしろうと歌手のように顎を突き出してなおかつあの高音をフォルテでしかも長く延々と響かせるのには驚嘆させられる。並はずれて強靭な声帯と豊かな肺活量、気息の長さを保有しているのだろう。…… |
日本で最も権威がある(?)レコード雑誌の批評家の高崎氏は、デル・モナコ先生に対して、
“まるで親の仇でもとるかの如き形相にて歌う” |
と頻繁に著述されますが、端正な歌いぶりで有名なアルフレッド・クラウスでさえ、いわゆるハイC等の高音を発声する際は(多くの方々もお気付きと存じますが)物凄い顔付きになります。
なぜ皆様は、アルフレッド・クラウスの形相には目をつぶり、デル・モナコ先生の事となるとそれこそ親の仇を討つばかりに筆を振るうのでしょうか?
デル・モナコ先生も、アルフレッド・クラウスもハイC等の高音を発声する際の物凄い顔付き(?)は、あくまでも、喉に力をいれず力まずに高音を出す為の手段なのです。
最近、NHKイタリア歌劇団の貴重な映像がDVDとして発売されましたので、是非とも、デル・モナコ先生とクラウスさんの高音を出す際の顔形を見比べてみて下さい。
ご参考の為に、ここで、その一瞬の映像を比較してみて下さい。
デル・モナコ先生 (アンドレア・シェニエ) |
アルフレード・クラウス (ファウスト) |
本間公氏は、この場面を見ても、デル・モナコ先生が「顎を突き出してなおかつあの高音をフォルテ」で歌っていると認識されますか?
顎を突き出しているのではありません!
胸を張っておられるのです。
批評家の高崎氏は、デル・モナコ先生とクラウスさんのどちらが「親の仇」に立ち向かっているように見えますか!?
更に、高崎氏は、次のように書かれています。
……殆どヴイブラートのないその強じん無比な声を咽喉だけで支えるような芸当は、デル・モナコにだけ可能な放れ業だといっていいくらいだ。 |
高崎氏は、発声に関しては全く無知と思われます。
いかに、デル・モナコ先生やクラウスさんでも、高音は「咽喉だけで支える」事態が一瞬たりとも起こると出なくなるのです。
(たとえ出ても、汚いのです。)
その為に、より声を身体で支えなくてはならなくなり、顔形が変わるのです。
(勿論、私もハイCを出す際には、空手で瓦割りをするかのような凄い形相になります。)
更に、コレッリさんのホームページには次のように記されていました。
インタビューはまだまだ続きます。今後も私の力の及ぶ限り訳を試みてみようと思っています。 私のイタリア語、それに音楽用語、オペラ題名、アリア名などにも多くの誤りがあると思います。もし、お気づきの点、おしかりがありましたら、ご一報ください。 |
この「お気づきの点、……がありましたら、ご一報ください」の件で、一寸書かせて頂きます。
それは、次の件に関してなのです。
「あなたはデル・モナコが録音したレオンカヴァッロの『ラ・ボエーム』のあなたはデル・モナコが録音したレオンカヴァッロの『ラ・ボエーム』の"La testa adorata"のレコードを擦り切れるほど聴いたそうですねを擦り切れるほど聴いたそうですね」 |
と書かれている、「レオンカヴァッロの『ラ・ボエーム』の"La
testa adorata"のレコード」(何度目かの再発売分と思いますが)のジャケット(下の写真)には、私が撮影したデル・モナコ先生の写真が採用されているのです。
勿論、このホームページの記述者もご存じと思いますが、「レオンカヴァッロの『ラ・ボエーム』の"La testa adorata"のレコード」の意味は、「レオンカヴァッロの『ラ・ボエーム』の"La testa
adorata"が第一曲目にカッティングされているレコード」の意味なのです。
と申しますのは、日本のレコードと違って、海外のレコードは、再発売になるたびに同じレコードでもレコードの表題が違ってしまうようなのですから。
実際、このレコードを日本で輸入盤(Londonレコード)として買ったときは、
“ITALIAN&GERMAN ARIAS MARIO DEL MONACO”でしたが、イタリアで購入した際は、“La
voce di MARIO DEL MONACO vol.3”と変わっていました。
このレコード(CDの『マリオ・デル・モナコ大全集』の7枚目のCD1964年7月録音アリア集に相当)に収録されている曲の日本語題名は、次のようになります。
No |
作曲者 |
歌劇名 |
アリア名 |
1 |
レオンカヴァッロ |
ボエーム |
愛する面影 |
2 |
テレア |
アルルの女 |
ありふれた話 |
3 |
マスカーニ |
イザベオ |
アハ!アハ!私の呼び声を |
4 |
マスカーニ |
イザベオ |
おお、臆病な人たちよ |
5 |
ザンドナイ |
ファランチェスカ・ダ・リミニ |
すみれの冠を |
6 |
プッチーニ |
ジャンニ・スキッキ |
フィレンツェは花咲く木のように |
7 |
ワーグナー |
ヴァルキューレ |
父が約束したひとふりの剣 |
8 |
ワーグナー |
ヴァルキューレ |
冬の嵐は過ぎ去り |
9 |
ワーグナー |
ヴァルキューレ |
私はジークムントだ |
10 |
ワーグナー |
ローエングリーン |
はるかな国へ |
そして、第1曲目の「愛する面影」を初めとして、これらの曲(“ありふれた話”などを除いて)は声を激しくぶつける箇所が多いのです。
この声をぶっつけるような歌い方は、コレッリさんは平常なさいません。
この様な声の用い方は、デル・モナコ先生の独壇場といえます。
ですから、この様なデル・モナコ先生の声に関して、前述の『マリオ・デル・モナコ大全集』の解説書の中で、私の恩人である中川牧三先生は、次のように解説して下さっています。
マリオの声は何の障碍もなく磨き済まされたティンボロ(響き)であるから、声そのものは、充分にアッポジャトゥーラ(前打音)したものである。 その発声の発見は、たゆまぬ研鑽と努力から生まれた賜物なのである。その上にラテンの血の持つ英才と、彼の持つ鋭敏な英知とが合致して、奇跡とも言える発声が出来上がったのである。 |
この中川先生の解説文を読み、又、デル・モナコ先生の「"La
testa adorata"のレコード」を聴きながら、デル・モナコ先生の私への教えを思い出すのです。
“宇佐美!声はMetallo(金属的)でなくてはいけない。” “金属的な声とは(「日本で言われている金切り声」ではなく)、金属のコップやクリスタル・ガラスを指で弾いた時にピーンと鳴る、あの鳴りなのだ。” |
(コップ全体をきつく握りしめていたら(即ち、喉に力を入れていたら)どんなに力任せに叩いてもピーンと澄んだ響きは出て来ないのです。)
しかし、コレッリさんの声は素敵ですが、どちらかと言えば、弦が弓で擦すられて鳴り出す感じの声ですから、デル・モナコ先生のMetalloな声が存分に発揮されている「"La testa
adorata"のレコード」を、コレッリさんは擦り切れるほど聴かれたのではないでしょうか?
そして、今、私は、デル・モナコ先生のこのCD(レコードは磨耗が心配なので)を聴いていると、思い出と共に涙が溢れて来てきます。
更には、コレッリさんの思い出に、コレッリさんが来日された際の単独、そしてテバルディさんとの演奏会のテープを聴こうとしました。
でも、オープンテープの録音機は長らく使用していませんでしたから、ゴムなどが劣化してしまって回転数がめちゃくちゃで再生不可能でした。
残念な事です。
でも、コレッリさんのレコードも、イタリアで随分買いましたから、これらを聴いてみようと思います。
(コレッリさんの東京での全ての演奏会は「ボエーム」も含めて全て出掛けました。
そして、”こんな素敵な声の人が存在するのに、何故日本人は声楽を学んだりするのかと、例によって自分のことは棚上げにして、思ったものでした。)